放送と通信の融合について

オリンピックも終わってしまいますね。これまで、4年に一度の五輪は、4年に一度しかスポットライトが当たらない競技の詰め合わせ的なところもありましたが、これからは少し変わってくるかもしれません。実況コメントサイトや動画サイトが充実し、少ないファンを結びつけたりその競技に詳しくない人が過去から現在を動画クリップで知ることができるようになったからです。yahoo速報に実況ch.がついたりニコ動のマイリス登録の急増を見て、いわゆる「放送と通信の融合」なるものがやっとティッピングポイントを超えつつあると感じています。


不特定多数に対するテレビの訴求力の大きさがいまだ衰えていないことは多くの調査で知られています。何かを知るきっかけは、いまだテレビであることが多いわけです。オリンピックの中継を通じて、多くの人がカーリングやフィギュアなどに関心を持ちました。これらの競技が継続的に話題になるかは、これまでであればテレビのフォロー次第だったわけですが、これから少し違うかもしれないということです。テレビ放送のビジネスモデルは無料でお金をかけて作ったコンテンツを提供し、広告やイベント、関連商品など二次的な商品で回収するものなので、テレビがフォローするかどうかは回収出来るかどうかという視点で決められ、どうしてもコンテンツへの投資が偏ったものになっていました。けれども、これからは今までよりは、視聴者視点で偏りが無い放送のスタイルを確立していけるかもしれません。


もちろん、そのための課題はいろいろあります。上記の認識は、一般的にはテレビ放送のビジネスモデルの崩壊を意味しているはずで、コンテンツへの関心のトリガーもコンテンツの収益化もネットに主戦場が移ると考える人のほうが多いように思います。僕はこれは当面ないと思っているので、「放送と通信の融合」の観点からテレビがプレゼンスを大きくしていける可能性と、その可能性を高めるための課題を整理していくのが良いと思っています。大きい話としては、テレビが関われば競技の運営組織そのものにアプローチできる可能性があります。




執筆中〜

何も生まない人事制度

本日は雨につきゴルフ見送りです。何も予定がない休日は、ついネットに張り付いてしまいがちです。WSJのサイトなぞ見ておりましたら、「google検索は人をアホにするか」みたいな内容のコラムを見つけました。そのコラムの結論は、googleによって様々な情報を得られることで人の分析力の幅は広がるというものでした。まあよくある話題なのですが、この話題ってゆとり教育の議論と重なるところを感じます。学ぶ側の選択の自由、全体としての多様性なんかを大事にすれば、優れた人材が現れ社会もきっと豊かになるという考え方です。自由と意思を原則とするやり方は今風というか、グローバリゼーションの根底にも通ずるものと思います。


それとは別に、ちょっと前にみたコラムに、オリンピックにおけるロシアのプレゼンスが低下したという話がありました。ソ連崩壊のあおりで、2010年バンクーバーオリンピックで主力となるような人材が育たなかったというわけです。かつてはソビエトシステムという、都会から田舎まで隠れた才能を見つけては特別に伸ばす仕組みがあったという話をききます。そして、スポーツでも芸術でも歴史に残る成果を上げてきたのは周知の事実です。保守的に成功した歴史を持つロシアにとって、よりよいやり方とはなんだろうと思わずにはおれません。


もひとつおまけの議論に、優れいた人材というのにもいろいろなタイプがいて、どういうタイプの優れた人材が必要かということがあります。金メダルを取れても柔道の石井選手みたいなタイプばかりが出てくるのでは、優れた人材を生むシステムとは言うないでしょう。あ、あくまで全体から見た場合でのはなしですけどね。で、最初のgoogleの話は、全員の底上げ的な意味では確かに有効だと思えても、エリートがさらにレベルを高めていく話だとはとても思えない。2つめのロシアの話は、愛国心あるエリートを育てるシステムだと思えても、育成システムからあぶれた人はチャンスの少ない人生を送らなければならない。一長一短あるということでしょう。


こんなことを思いながら、会社の仕組みにあてはめてみます。これまでの日本企業は終身雇用前提で、落ちこぼれがなるべくでない年功序列を特徴とした人事制度だったわけです。今は成果を出せば若手でも上位職につけるようになりつつあって、早めに幹部候補を引き上げようという制度に変わってきました。でも終身雇用はやはり前提なので、幹部コースに乗り遅れた社員が出世を諦めパラサイト状態になっていても、会社は手を出せないような状況だったりします。彼らの首をきれなければ、成果を出した人間にも十分報いることができず、幹部になる魅力が減って幹部も生まれにくくなる。


googleとロシアの話はいまさらどうなることでもないわけですが、今の日本企業の人事制度が、エリートをがっかりさせ、全体を諦めさせるシステムになってことを認めるのだとしたら、ヤバイのではやく何とかしましょう。ちなみに僕はソビエトシステムを好意的にみていたりするのですが。

現代のグラディエーターたちへ

かっこいいタイトルをつけてしまいましたが、もう夜も遅いので手短に、そして6時に起きてゴルフ・・!雨かもっ?


世の中にはいろいろな人がいて、それぞれの動機で生きています。人を動かす炎が何処から来たものなのか?誰かに言われたからか、誰かに認められたいからか、いやそうする運命だと信じこんだから?本当のところは当人にだって分からなかったり、まあ現実問題、そんなのどうだっていいことだったりします。やはり他人の目から見て美しいのは、自分を犠牲にしてでも一瞬の煌めきを放つような生き方でしょうか。スポーツ選手は身体にメスをいれてでも勝負の世界に留まり、勝利を求め続けます。芸術家は自分の表現を信じ続け、誰にも相手にされなくなったその時に歴史に残る作品を生み出します。その積み重ねが、人類が人類たるところである文化を作り上げてきたことを、認めない人はいないわけです。自分もそういうひとりでありたい、誰もが胸の奥で一度ぐらいは思ったことがあるはずです。


名誉ある大会やコンクールとは、文化を継続的に積み重ねるためのシステムという側面があります。スポーツにおいてのオリンピックはその最たるものです。競いあって、傷つきあって、人類の進歩の次の一ページを開いていく人たちがオリンピックに参加しています。それを遠くからみているだけの人も、そう思って見ている・・はずです。自分には出来なかった自己犠牲を伴なう夢への挑戦、そんな感傷を呼び起こしながら、もうちょっと頑張ってみようと思える偉大なる凡人がきっと増えるはずなのです。だから、オリンピックの競技はそう運営されて欲しいし、参加する選手は自分をグラディエーターだと思って欲しいと思うのです。女子のフィギュアスケートを見て、これは・・と思った今日でした。

銀メダルかあ

金曜会社を休めず録画で男子フィギュアを見ました。動画サイトを巡回しても見つからずちょっと困ったけれど、NHKのサイトに演技ごとにまとめておいてあります(ランビエールとかも、高橋大輔は大舞台で弱い日本人というこれまでの概念を覆す内容でしたね、すごい)。動画サイトで検索というのに慣れてしまって、公式を使うことを忘れるなんてなあ。んで、プルシェンコの演技がいまいちというのをネットで見ていたけれど、そんなにいうほど悪くないじゃんねえ。これで金を取れないのは本人も本音で不満なんだろうなと思いました。4回転の話はねえ。2つあって、4回転を飛ばないと金メダルがもらえないというのはオカシイというのと、4回転以上のことを成し遂げていくことが競技としてのフィギュアに必要だということの両方から考えるんだろうねえ。1つめについては、4回転を飛ばないにしても、ジャンプの要素を増やす(増やすメリットを与える採点ルールにする)とか、SPと重複する要素には加点しないとか幅広い議論をしていけばいい。2つめについて、こっちが特に焦点になると思うけどこれは、4回転を跳ぶことが大事だとほぼすべての競技者が暗黙に理解しているはずなのに、それでもあなたは勝つために五輪の舞台で採点方式に迎合しますか?ということだろうなあ。まあそのへんはファンとして思うことをブログに書くぐらいで十分で、具体的には当事者が考えることですが。


オリンピックの具体的な話とは別に、一般論として、ルールにそって最大価値を追求することは正しいように思えます。でもルールはあくまでルール。ルールに従っていればすべてが良くなる(もちろん良くなるというのは、過去に退行しないとか、システムが固定化しないという意味です)訳ではない。特にルールの誤りに現場の人間が気づいているとき、その誤りを放置して、ルールの中で上手いことをやるというのは、無知以下です。そんな、ルールの誤りに気づいた現場の人がルールを変えるにはどうすればよいかという話、会社の中で結構よくあります。大抵は、現場の人はルールを変える立場にいないのだから、諦めるべきとなってしまうけど、諦めないで本当に将来のためにがんばれる人もいる。そしてそのやり方は、ルールを破るというより、ルールを変えざるをえなくさせるような成果を、ルールを守った上で出していくということなんだよね。そんなことを引き合いにして、やっぱり、人間というのはルールと言う枠組みのなかでの結果ではなく、現場の当事者として目指すべきものを追求しなければならないと思うし、ましてや五輪に出るような人なわけだしと感じてしまうなあ。


誰もが幸福になれるシステムを持ちえない人間と社会について、自由があり、規制があるルールの中で、いつでも目指す姿を想像することができるものであり・・などと、そういうことなんだろうね。

物語とキャラクターとその意味と

周りの人間が意外にオリンピックに興味がなく、昨日4時ぐらいまでカーリング見ちゃったよ〜とへらへらしていると、お前寝不足で仕事やる気あんの?みたいな雰囲気になっちゃう感じがもう敵がすぐそばにいるよね〜と。カーリングなんてやったこともなければ(生で)見たこともない競技に盛り上がれちゃうのは、HDなテレビモニターの臨場感のおかげでもあるけど、やはり物語としての感動があるのです。前回のOP代表頑張ってたなーと小野寺林がいた4年前を思い起こしながら、残留メンバーもいてまるで好きだったアニメの2期がやってるような感慨があります。これって、カーリングのスポーツとしての面白さを楽しんでいるわけではなくて、そこにいるキャラクターと彼らの背景話にひかれ、まあOPが終わったらDVDでシムソンズあたりを見て消化するはなしと捉えるのが極めて妥当に思えます。そんなふうにOPって共感して泣けるストーリーの詰め合わせだなあとか考えるのもセンスに欠けるわけですが、勝手に描いたストーリーを選手に押し付けて日本代表として云々みたいなことをいうのも同様にセンスがないわけです。微妙な話はこれまで通りマスメディアが最適値を見つけてくれればいいなあと思いながら最近はネットのノイジーマイノリティがやたら目立ってちょっと気味悪い感じで。マスメディアを持ち上げるわけではないけれど、物語が不足して、古き良き〜まで遡らないとなんにもないかのような今、自由闊達はいいにしてもネットは何を生み出していけるのカナと、もはやツイッターにもつぶやかないぐらいの独り言は以上。

オリンピック

上村愛子選手のブログをRSSに登録している私にとって、とても素敵なエントリーでした。
http://blog.excite.co.jp/aikouemura/10772280/


凡人的な発想ですみませんけど、オリンピックでメダルをとるというのは素敵に生きるためのトリガーなのだろうなと。
素晴らしい仲間と素晴らしい時間を過ごすためには、素晴らしい目標が必要であって、その目標たりうるものがオリンピックのメダルだったというだけのことかもしれないなと。メダルが夢であり目標であったけれど、メダルを取るために努力する日々こそが、実は本当の意味での人生の目的だったと振り返る試合後。メダルが取れなかったからこそ、よりいっそう、メダルを取るために頑張った日々のことをいとおしく思えるかもしれません・・とは流石に言い過ぎかしらん。夢は叶えるまでが夢、とは誰の言葉でしたかね、忌野清志郎さんでしたか。


サラリーマンだって、会社で素敵な仲間と素敵な仕事が出来れば、別にメダルとか栄誉とかなくてもそれこそ胸をはれる人生になるでしょう。難しいのは、サラリーマンにはオリンピックのメダルのような、一丸となって目指せる目標がなかなか見つからないことだね。いつでも利害と裏表がある世界にあって、夢になる目標が見つかるのはいつの日か。夢を見つけるまで空っぽ、空っぽのまま人生の夕陽が西に見えてって人がなんとも多いような・・なんて20代の私が言う事ではないなw いずれにしても、夢を見つけて追いかけている人に刺激を受けるといいと思うよ for all プロセスが大事的なことを書いたけど、結果を真摯に求めていなければ素晴らしいプロセスなんてありえないということなんかも教えてもらえると思うし。夜更かしで尊大なワタシw


フィギュアが始まりますね、プルシェンコ楽しみ^^まあLiveでは見れないけれどorz女子はサーシャ・コーエンが出てないので、まあね。フィギュアなんてジャンプのダウングレードとかどうでも良くないか?などと、競技そのもののありかたにぶーぶーいいながらも思わぬ感動が見つかるのもオリンピック。さすがは世界の祭典。

ブルジョアとプロレタリアのアラベスク

努力と才能の上に富と名誉があること、
貧困と無知の上に許されざる罪が生まれること。

努力も才能もないのに裕福な暮らしができる人がいること、
貧困でも無知でもない人が悪意の罪を犯すこと。

どちらがゆがんでいる世の中なのかなあ。
まあ、考え方次第では答えは明確なのだろうけどね。
オリンピックとか宮城の殺人事件とか、いろいろなニュースがありすぎますね。