何も生まない人事制度

本日は雨につきゴルフ見送りです。何も予定がない休日は、ついネットに張り付いてしまいがちです。WSJのサイトなぞ見ておりましたら、「google検索は人をアホにするか」みたいな内容のコラムを見つけました。そのコラムの結論は、googleによって様々な情報を得られることで人の分析力の幅は広がるというものでした。まあよくある話題なのですが、この話題ってゆとり教育の議論と重なるところを感じます。学ぶ側の選択の自由、全体としての多様性なんかを大事にすれば、優れた人材が現れ社会もきっと豊かになるという考え方です。自由と意思を原則とするやり方は今風というか、グローバリゼーションの根底にも通ずるものと思います。


それとは別に、ちょっと前にみたコラムに、オリンピックにおけるロシアのプレゼンスが低下したという話がありました。ソ連崩壊のあおりで、2010年バンクーバーオリンピックで主力となるような人材が育たなかったというわけです。かつてはソビエトシステムという、都会から田舎まで隠れた才能を見つけては特別に伸ばす仕組みがあったという話をききます。そして、スポーツでも芸術でも歴史に残る成果を上げてきたのは周知の事実です。保守的に成功した歴史を持つロシアにとって、よりよいやり方とはなんだろうと思わずにはおれません。


もひとつおまけの議論に、優れいた人材というのにもいろいろなタイプがいて、どういうタイプの優れた人材が必要かということがあります。金メダルを取れても柔道の石井選手みたいなタイプばかりが出てくるのでは、優れた人材を生むシステムとは言うないでしょう。あ、あくまで全体から見た場合でのはなしですけどね。で、最初のgoogleの話は、全員の底上げ的な意味では確かに有効だと思えても、エリートがさらにレベルを高めていく話だとはとても思えない。2つめのロシアの話は、愛国心あるエリートを育てるシステムだと思えても、育成システムからあぶれた人はチャンスの少ない人生を送らなければならない。一長一短あるということでしょう。


こんなことを思いながら、会社の仕組みにあてはめてみます。これまでの日本企業は終身雇用前提で、落ちこぼれがなるべくでない年功序列を特徴とした人事制度だったわけです。今は成果を出せば若手でも上位職につけるようになりつつあって、早めに幹部候補を引き上げようという制度に変わってきました。でも終身雇用はやはり前提なので、幹部コースに乗り遅れた社員が出世を諦めパラサイト状態になっていても、会社は手を出せないような状況だったりします。彼らの首をきれなければ、成果を出した人間にも十分報いることができず、幹部になる魅力が減って幹部も生まれにくくなる。


googleとロシアの話はいまさらどうなることでもないわけですが、今の日本企業の人事制度が、エリートをがっかりさせ、全体を諦めさせるシステムになってことを認めるのだとしたら、ヤバイのではやく何とかしましょう。ちなみに僕はソビエトシステムを好意的にみていたりするのですが。