多様性

現代人の多様性って広がったようで、広がってないのかもなあと。
ちょっと表現が難しいのだけれど、自分と違う人が存在することを確認するコト自体が社会全体の多様性を狭めている気がするわけです。
なんのことかといえば、例えば自分と価値観が違う人について。価値観が違う人を認めようとすることは、つまりは自分の価値観と他人の価値観を相対化するわけで。
相対化された他人の価値観というのは、自分の価値観とは独立して存在できないシロモノになってしまう。
要するにですね。他人の価値観が独立して存在できるとは、他人の存在が気にならない状態だと思うのです。
存在が気にならないという言い方はちょっとアレですが、他人の価値観など気にならない状態であってこそ、自分とは別の他人が存在し、多様性なるものも生まれる。


そうした多様性って空気嫁的な常識がまかり通る世界や、暗黙のこうすべき的なものがある共同体では実現不可能であって、他人のことなんて気にしていられないサバイバル状態にあって初めて実現するのかもと。
それが日本の昔と今の違いなのかもと。