ダブルシンク@1984年

人は自分について、何を思い、何を計画し、何を行動したかという観点で自己評価するけど、他人が客観的に評価できるのは行動の部分だけであって、それ以外のことについては良く分からないというのは仕方が無いことのように思います。いくら賢くてもいくら深く考えていても、潜在化しているアウトプットは評価の仕様がない。現実的に会社で仕事した場合は、行動(プロセス)さえも評価の対象にはならず、行動したことによる結果(成果)だけを見て考課をするわけで、要は自分のことは自分しかわからんのは会社という場ではもちろん、まあ社会の殆どで大前提といえることでしょう(この前提がないのが家族や友人など、ローカルなコミュニティともいえる)。

他人の評価なんて気にしないといってみたところで、自己評価だけで自分を定義できるほど誰もが強い精神の持ち主ではないわけで、客観的に他人の視点で自分を定義されたいという欲求は誰にもあるはずです。それが結果出して他人に認めてもらおうとする普遍的なモチベーションであり、とくに社会人一年生とかだとこの辺のモチベーションは高い。けれども、2〜3年もすれば頑張っても認めてもらえないことが分かってしまう人(能力が低めな人)がたくさんでてくるのがもう恒例行事なわけで、パレート的には8割の人が客観的な評価を得られず腐るという感じでしょうか。能力が高くない人たちが仕事以外の何かで客観的な評価を得ようとして、プライベートで趣味やらネットやらで自己を発信・表現したがること、またそれとは別ですが仕事内での評価だけでは満足できないでより高い承認欲求を満たそうとする人たちがいることなども含め、正当な評価とは自己評価しかありえないのに、他人に認めてもらうことでしか客観性を確保できず、結果十分な心の充足を得られないというのはうつつの現実問題として厳しいものだなあと思います。

この本のなかの”ダブルシンク”というのが権力たる組織に個人が従っていくための術だったとして、現代では組織にだって束縛されない自由を個人が手に入れているのだとしても、個人は、客観的に定義される自分と、自分の中にある自分というものを両立させるためにダブルシンクを使わなければならないのでしょうよと。ダブルシンクに個人としてコミットするタイミングが、その人の人生を左右するのかもしれないぐらいに思えたりもします。ありのままの自分では立ち行かないと気付くとき、目指すものに届かないと気付くとき、一般の人生においては就活のときだったり仕事をしてみてだったりするのだろうけど、大人になってからじゃあ遅いというか、なんと言うか、わかりますでしょうか。責任もって仕事にバリバリ取り組む自分と、だらだら耽美なカオス空間を漂いまくるダメな自分と、両方持っている人が色々な意味で強くて、んで、年をとってそこら辺が上手く重なり合うあたりが人生の目標軌道なのかもなと、そんなことを考えた2月のある日。

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

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